弌矢コード

挿絵に負けたくないです。

カラースライド

「風景よりも写真機が気になるの?」
 混み合うエレベーターのなかで、彼女がいって僕に笑みを見せた。彼女の精神にも良い事だろうと、東京タワーのなかからの景色を眺めに行く所だった。
 確かに僕はカメラばかりを気にしていた。とはいっても、自分ではなくて他人の持ち歩くカメラばかりを気にしているのだが。親元を離れて東京で暮らしているせいだろうか。こうして僕は最近いつも苛ついている。エレベーターのなかでも皆がカメラを持っている。「一億総写真家」の現在、写真家である彼女はそれを気に病んだりはしていないが、プロではない僕の方はそれに対して苛立ちを覚えていた。
 登りついた僕たちは窓際の皆に混じって上空のフロアからの眺めへ向けてシャッターを切った。彼女は気軽に撮っていた。僕はといえば、それが責任みたいに写真を撮り続けている。何故こんな事をしなければならないのか。
「お腹が空いた」
 彼女がそう言って僕の手を引いた。
 レストランからは旅行客の人混みとテーブルの向かいに座る彼女だけしか見えなくなっていた。窓が遠くて東京が見えない。
 ざわめきのなかでオムレツを食べ終えてから何か冷たい飲み物をとメニューを見返していると正面から彼女に、撮りためた写真について意見が欲しいといわれた。インスタグラムで知り合った仲だから、彼女によりアップされたそれらについてはすでにコメントをしている。彼女の手による他の物について僕が答え出すと、彼女は嬉しそうに僕を見詰めた。
 インスタグラムを遠慮する事を勧めていた。アップされた物を写真集にするのは止めておいた方が良い。見知らぬ者どもからぼろ切れの様なコメントを受け、それに対して一々傷ついている彼女の分かりにくい写真などは、どうせ売れたりなどしないのだから。そう言った事があった。彼女はネット民(そんな存在があるとして)に向けて撮りも作りもしてはいないし、儲けるために売るのではないのだからといって僕に耳を貸さずにいる様だったが。
 くたばれ、分かり易い様にばかり振る舞い、群がる者どもなどはくたばれ。そして僕は惚れている。彼女の態度に惚れている。僕は彼女と違って、バルトもソンタグベンヤミンも読んだ事がない。その三人の名前を知ったのも彼女のお陰だったが、そんな物を読んでいるから彼女は更に気が変になるのだと思う。それでも彼女に惚れている。
 そんな僕が答えている。
 嬉しいわ、と彼女があけすけに微笑んだ。歩いてきたウェイトレスがトレンチで運んできた二つのクリームソーダをテーブルに置くと、彼女はポーチから取り出した抗うつ薬をクリームソーダで飲んでからリップを塗り、脇のカメラを取り上げて僕を撮ろうとレンズを向けた。僕が慌てて避ける。
「その薬を僕にもくれないか」
「効かないわよ」
「強くなったらしいじゃないか」
「効く人にしか効かないの」
「今の僕になら効くのじゃないかな」
 渡された錠剤とカプセルの入った半透明のパケをちぎって僕がそれを飲んだ。くすぐったい感覚が走った気がした。三〇分ほどで効く人には効いてくる。
 二人に三〇分が経過した。気がつくと人混みが減り、遠くの窓にもう傾きかけた午後の太陽がある。けれども僕に変化はやって来なかった。病気で無い事を確認するために薬を飲んだみたいだと彼女が苦笑した。今はね、と僕が初めて笑って答えた。二人はまた外の東京上空へと席を立ったその時に、彼女が頭痛と不安と恐怖を三拍子訴えた。きっとこの空の圧力と人混みにやられてしまっているのだ。僕には救えないと思う。
「どうしたのよ」
「君こそ大丈夫なのかい」
「じきに直るわ、気圧のせいかも知れない」
「こっちも気圧のせいかも知れない」
「そんな気もするわ」
「殺意かも知れない」
「できれば止めにして欲しいわ」
「自分のせいで良いよ」
「ふて腐れるのね」
「仕方が無いだろう」
「それとも死にたい?」
 僕は答えなかったが、どちらでも同じ事だと思われる。そうして世が暮れていくまで撮る。撮って撮って撮りためて彼女がカラースライドにする。それを上映するのは僕だ。僕らはそうして刻一刻老いていくだろう。そして共に犬死にするだろうか。
 怒りだ。
 この見える世界に対してあえて怒るのだ。
 僕は怒りにより若気を取り戻す。
 怒りの対象は充ちている。
 時代への怒り、
 場所への怒り、
 しがらみへの怒り、
 彼女と僕をここでこうさせている怒り、
 そして今更ながらも一体に、
 僕らは何故生まれてきたのだ、
 それらすべてを子供染みた叫び声と共に、カラースライドに封じ込めて上映するのだ。
 詰まらぬ人間になるなというのが祖父の口癖だった。曾祖父もそうだったと母から聴いていた。そしてぼくを生んだ母は祖父に似ていた。
 詰まらない他人に囲われて僕は腐るだろうか。詰まらない人間だから他人を腐らせるのだろうか。腐った関係、腐った暮らし、腐った人生、もしも僕に腐っていなかった日があったなら、いつでもその日に戻るべく生きている。それだけで生きている。この空に囲われて、まだ生きている。
 けれども、それが自分だけで無かったら? 夥しい数の人間が同じ思いだったなら?
 彼女がほくそ笑んだ。僕をよそに、光景がある。全体は積乱雲の偏在するドーム状のシェルターのかたちをしていて、広がる東京の街を傾きかけた太陽が照らしながら、あちこちに影を作っている。飛行機が雲の切れ目のみずみずしい青に浮いて動いている。その下の湾の真ん中に光芒があって、その光の楕円の中でタンク船がいつまでも停止している。二人のいる東京タワーの外の街と海は午後のなかでたゆたっている。眺めていた。たとえ世界が巨大だとしても僕らは決してちっぽけではない。
 窓に雨粒がついて、時間が流れだしたのを知った。旅行客が激減していた。二人は空を消し去る人口の夜景の訪れを待ち望みながら写真を撮り続けた。孤独を忘れる光景の移ろいを手繰り寄せる準備をして、東京が灯る時間を待ち続けた。