弌矢コード

挿絵に負けたくないです。

内面青少年

──空腹も満たされてしまった事だから退屈で死ぬか殺すかしたくなって来るのだ。
 東京芸術大学の食堂での友人によるその呟きに同感だと答えたが、あの時の彼は、或いはぼくを殺したかったのだろうか。
 差し当たり休暇のいまは夏、東京は生活に埋め尽くされていて何も無いので未だ破棄せず持っていた画材道具をカルトンバッグに入れて家を出た。埠頭へ向かう事にしたのはいつもの様に夏から海という気分の移ろう作用による。別人たち皆と同様に。
 たどり着いたら夕日が赤く沈みかけていた。廻りに注意してからジタンに着火した。定まらずゆれる海辺を眺めていると、赤く染まっている海の色が次第にどす黒い方向へと変容して行く様に垣間見えて来て次にぼくは海外で本物のアブサンをボトルで煽って波止場を蹴り静かにダイブして行く絵空事を頭に描いていた。
 内面の様なものの空白にドラッグを埋め込んだ知人がいる。マンションの天井に刺さりゆらめく夥しい数のサーフボードに怯えて、花盛りの木陰でフルーツの様に縊死をしたのだが、その事を後日、ぼくなど遠く及ばぬ性欲の強さを兼ね備えた女との行為の最中口にしたら、その女は途端にオルガズムに達した。続けて詳しく伝えると更に何度か気をやっていたが、あの時の新宿の夜景はビル群がビル群自体の光に溺れて明滅しながら鮮やかに彩っていた。
 波止場に客船が重油の匂い混じる微風とゆれながら停泊している。ぼくは待ち構え、それを眺めている。夕日が消えかかっていて、すべて別の色に暮れ始めている。
 東京芸術大学の友人とは便りが途絶えたままだ。あの光の何処かにいるだろうが、確かなのはこの世界から消えたがっていた事だ。ぼくの恋人とも気の置けない仲だった友人は物欲に身を浸らせていた。目新しい物へ向けて藁をも掴む勢いだった。けれども長続きしそうに無かった。描く事もとうに止めて引き籠もったままでいるらしいと彼の実家の電話で母親が声を震わせていた覚えがある。PCの音声チャットゲームに溺れている様だった。友人は電話を持っていなかった。死んだのではないだろうかとぼくの恋人が泣いていた。
 暮れて行く遠くの街の音が変わって行く。雲は藍色と消えかかっている。ヘッドフォンをあてた。モーダルなジャズが流れたままになっていたからジャズ・リベレーターズへ変えた。ハンドクラップからルーズでいてハイなライムへと音が移ろう。彷徨う上空へ街の光が昇って行き刻限を決め込みかけている。次の瞬間、目前の客船が動き出す様な色分けがよぎった。
 恋人はピアッシングでは飽き足らないと、サイケデリックなタトゥへの決意をぼくへ向けていたが良い事なのだろう。ぼくにも勧めて来たが、検討すると答えたままだった。検討好きだと、何か諫めている様だった。何所に入れるのかと訊いてみると、至る所になるはずねと微笑みを見せていた。デッサンはぼくがした。結果はまずまずだったが、恋人は持続して燥ぎ続けていた。いまは整形手術を決め込んでご機嫌でいる。ぼくは手術の出来も褒め称える事だろう。
 夜と定まった。街の光に負けている空にも雲の陰りと星はあった。海上に金色の灯りが浮き出した。ビル街区の向こうに海の色と似て発光する東京タワーがあった。客船のエンジン音が大きくなって行く。客が見当たらなかった。休航日だろうか。ぼくは人物を探った。
 ぼくは顧客の少ない書店のアートコーナーを任される事になっていた。新卒の自分にはアートが好きな事とアートコーナーの職務とは関係など無かった。ちっぽけなストレスとしかならなかった。それから会社は時間を持て余す様になって行った。そして書店の抱えきれない女子店員の中からいまの恋人を選んでいたぼくはもう何も無くて財布も空に近かった。
 ため息をつこうかどうか考え込みながら次の音を探る。モニタァにコブルストン・ジャズの画像が発光したけれどもクラブ系統がいまの頭に馴染まなかったし、音楽自体がいまは気分では無くなっていた。
 顔を上げると真夜中、アクアラインに光が走っている。川崎の陸影が浮かんで見えて、その向こうの横須賀も連なり海に反射してゆれ映っている。寄る辺ない気分から描く気分の現在に変わったかと思うと次のぼくが黒の海底から浮上してぼくに襲いかかって殴り殺し始める絵空事を描いていた。
──どうするのだ。
 空白に気分を一つ染め込んで暮らしている。束の間の一つ一つの空白を一色一色に染め変え続けてはそれを味わいつついまからいまを乗りこなす事だと口を滑らし学校の笑い者になりもしたのにその事が変わらないでいる。
 酒も含めドラッグの類いも試したが好きになれなかった。金や恋や愛欲自体でもない。芸術全般を選んでいるいまは喜怒哀楽を描きまたそれを味わう事により、死ぬほど嫌悪していて殺したいほど憎しみを抱いている退屈へ向けて立ち向かう羽目になった態を保っているらしい。
 持続している自分に再度思い至る。客船の消失した波止場から海の光景へ向けて空が鮮やかな色に移ろい始めた。埠頭に恋人たちが二つあって棒状に頭を上げている。カルトンバッグからイーゼルを取り出した。
 アクリルから水彩へ原色のみと決め込んで描き始める。まだ夜景は煌々とあった。描かれて行く絵は写真を模写した様に平坦になったかと思うとそのパースペクティヴが歪み出してポワンティエだらけになり重力も孕まなくなって行って新入生のぼく或いは別人に似て来た。
──画家さんは何を描いているのですか。
 淡い声がした。背中に恋人たちが立っていた。絵空事の自分と同化しながらぼくは描き殴って殴って殴り倒してもなお止めようとせずに闇が上空へ昇り消えて行く矢先に赤と青が滲み広がって来た時にはすでに筆を置いて煙を吐き出していた。それから充ち足りた様子の男女に向かって笑い声を上げながらジタンを海へ投げて見せると両手がべっとり染まり滴っていた。
──良い絵なのですね。
 答える間も無く次の一面へ向かわなければならないいま、明け透けな空の下で鮮やかに彩る果実を欲して空腹を抱えただけでいる。