弌矢コード

挿絵に負けたくないです。

ゆく果てを抱き続けて

 薄ら日照り込む成田空港のサクララウンジ、夏の旅行客たちのざわめきのなか、海のなかが素敵でキラキラと美しい酷く不味そうな魚の群れがフィンに寄ってくるのよ、と初対面の峰子が一辺倒に話し続けている。遠くで旅行客のゆがんだ笑い声がどっと上がった。いつの間にか、ラウンジは満席になっていた。峰子の背後で、積乱雲の浮かぶなかへとジェット機が昇って行く。飲みかけのアイス珈琲を置いたまま空港をでた。そしてふたりは手を繋いで陽炎ゆれる駐車場まで歩いた。
 スズランの香りがゆれた。四0キロほど走らせると空を彩りだした鉛色の雲から、ちらつき光る小雨が裾を広げ始めた。対向車線はダンプカーの渋滞になっていて、ヘッドライトが道の遠くまで数珠繋がりに伸びている。ラジオを点けたが、この辺りはいつもラジオの電波が混線する。窓の外の光景が沈んで行く様だった。湾岸工業ベルト地帯が見えるエリアでワイパーの速度を上げた。もうすぐたどり着く海辺に入り江・アパルトマンはある。
 幕張の湾岸に沿う二〇階建ての入り江・アパルトマンはオリエンタルな作りになっている。最上階の、硬度のある表面がなめされたユーラシアウッドの部屋だが、ぼくは親に断らず勝手に内装を少し変えて、密かな小部屋を取り入れた。
 到着して、峰子を招き入れ、ホームページで購入したプレミアムラム、年代物のロンサカパを酔わない程度にショットへ注ぎ込んでテーブルで峰子と向かい合った。峰子が語りかけてくるので、日本ではマンションと呼ぶねと答えた。峰子は開放的だった。適度に血流を上げてから乾燥サボテンを摂取し、エアコンの温度を強く下げて、部屋の温度が十六度になったあたりで、ベッドにふたりで潜り込んだ。すずらんの香りが充ち過ぎなほど充ち広がった。
 そのうちまどろんでいた様だった。まだ夜明けらしい。もう一度、眠れそうにない。テーブルのボトルがモニタからの灯りをゆらゆら受けて拡散している。テーブルの下へと輪郭のはっきりした峰子の黒い下着が垂れていて、その先でまだ雨の音がしていた。床に降りてベランダの窓を開ると発光する彼女が寝返りを打って、何か呟いた。適当に返しておきながら、端末に向かった。これからのために、東京湾の南にある、すっぽんのスープとフィレ肉のアボカド炒めが売りのレストランに峰子を連れて行くことに決めた。峰子が起き上がった。峰子の下くちびるをめくると、ハート形のタトゥが覗けた。消すことは可能なのかあとで調べてみようか。エスプレッソを飲んでふたりでシャワーを浴びた。
 降り注ぐ雨のせいか、レストランは客が少なかった。窓際から見える、鉛色の海辺を落下する真夏の雨は、次第に量が衰えて行く様ではあったが光景は悪く、対岸はみえなかった。
 プーケット島でのコムローイを断念したと峰子が愚痴をこぼし始めた。あの状況で三箇月もプーケット島にいられるわけがないと発光する画面を見せてきた。ギャルソンが、前菜を運んできたことに気がつきながらぼくは動画を見続けた。真っ白の砂に落ちる人影により、太陽が真上から降っていることが分かる。海岸のふちに咲く深紅の花陰で、水着姿の筋肉質で焼けた婚約者だろう男が、カメラに向かって手を上げ下げしている。何やら酷く酔った様子だった。カメラが右に動いて緑色に溶け合う青色の海が伺えた。
 降り止んでいた。レストランの窓辺からの海は濁りを増して、栄養を含んだ様だった。湾口の水平線手前にある光芒により銀色に揺れているその下を、外国航路の大船がくぐって行く。別れた婚約者を電波で探りながら、フィレ肉のアボカド炒めを口にしている峰子がぼくのすっぽんの食べ方を見つめ、声を立てて笑った。
 峰子は帰り、不機嫌になった。婚約者だった男が横浜から汚らしくこちらに近づいてくるという。ぼくは峰子が横浜に住んでいることを新たに知った。外はもう闇が落ちてきていて湾の対岸に陸影が浮かんでいる。あの光の粒のひとつが私の住処なのよと峰子がいった。あそこから男はどんな顔をしてくるのだろう。
 男はこなかった。明くる日もこなかった。峰子はこのまま幕張の入り江・アパルトマンに泊まり続けたいというので、ぼくは受け入れた。ふたりは何度も眠りに落ちた。
 ふたりを覚醒させたのは峰子の端末が通知を受けたときだった。インターネットのサロンページからだった。峰子がインターネットサロンの自分の履歴を覗くと、そこには婚約者による記があった。
──おまえより年下の女と遊んでいたし寝てもいるのだ。
 ふたりが会ったのも、そのインターネットサロンだった。趣向の合う者同士の音声通話。峰子の居場所はプーケット島だった。即座にノイズの混じる音声で性的関係を結んでから、ふたりは端末を接続したまま眠りに落ちた。
 ふたりは男のことなどお構いなしに入り江・アパルトマンで過ごした。すると金が尽きてくる。そろそろ兼業穀潰しであるぼくに無心を迎える日がきた。生活費を送金されながら乾燥サボテンで小遣いを稼いでいることを打ち明けると、峰子は快く受け入れた。ぼくは三箇月のあいだを使ってプーケット島へ旅行をする提案をして話し合った。
 それから入り江・アパルトマンで乾燥サボテンを食みながらふたりが準備を始め終えたとき、峰子が妊娠の反応を認めた。
 ウェブには三箇月といえばつわりもピークを迎えるとあった。けれども峰子は今後の暮らしの相談ならば旅行先のプーケット島でしたいという。峰子の心身にことがあればいつでも帰ってこられるということで、ふたりは成田空港へ向かった。
 夕暮れに、空港へ走らせているとき、峰子の端末の電波に異変が起こった。男が近くにいる。成田空港らしい。この辺りは電波が障害を受けやすいから、それと関係があるのかも知れないが、どのみち電波の全貌などはどうでもよかった。夕日が東京湾へ沈んで行くとともにに対岸の横浜が光りだした。
 空港のラウンジは空いていて、夜のチルアウトルームとなっていた。ふたりは窓際のシートを使ってモクテルをオーダーしながら飛行機をまった。窓から七色の滑走路、もっと向こうで夥しい光の粒が瞬きながら陸地を彩っている。望んでいた。プーケット島へ飛ぶところを男に見せてやりたいと。この夜に、そこまでふたりの気持ちは一致している。電波状況は完璧だった。男は空港にいる様だ。鮮やかに流れる音楽などよりも男の足音に敏感になっている耳を傾けていた。
峰子は三箇月続ける婚前旅行先のプーケット島で破棄を決めて、ひとりで帰ってきた。それからこの空港でぼくと初めて対面したあの日、そのことを打ち明けたのだった。そして、いま知らされたのは、峰子の躰は子供ができにくく、強い酔いにやられた男に酷く責められたということだ。けれども妊娠の反応はでている。それについて峰子が一辺倒に語りだした。
 あのインターネットで繋がったままふたりで性的関係を結んだとき、峰子は想像妊娠をしたのだった。妊娠しにくい躰が想像妊娠をしたことが喜びだったと峰子が一辺倒になっている。峰子は昔から、子供ができたら入れ墨を体験しようと考えていたという。それにしても男の行方はどうなったのだろう。
──いつまでも現れたりなどしないだろう。
 探るまでもなかった。警察から着信があったのだった。空港に隣接するホテルの一室でオーバードーズにより男が死んだということだった。けれども相手の女に譲り受けたドラッグで遊んでいたにしては摂取量が多過ぎる。警察は殺人の疑いも考慮に入れているといって、通話は終わった。やはり相変わらずだったのよ、と峰子が呟いた。
 静まるラウンジのなか、峰子は自責に囚われ始めた様子だった。妊娠のせいかも知れなかったが、ぼくには分からない。中止にするかと提案すると、峰子は断固反対した。必ず行くといいはった。そしてコムローイ他、様々なものを見て廻るのだと。男との思いで作りだろう。やぶさかでなかった。ぼくは乾燥サボテンのプッシャーにはもっと気を引き締めなければいけないなどと考えた。因みに現地の島には幾らでもプッシャーがいて、なんでも簡単に手に入るらしいことを峰子に教わっていた。
 ふたりはこの夜に離陸した。湾を縁取る光の陸地が見える。それは拡大していって、雲の下に消えた。しばらくして現れたのは雲の下の異国だ。着地のとき、拍手をしている乗客までいた。プーケット島は、インターネットによるとビーチが至高とある。峰子の端末の動画でそれは分かっていた。観光もインターネットに従えばこと足りる。
──何でも入手可能なのだし妊娠しているのだから様々なる快楽を享受して浸ればいい。
 空港の外は晴れていた。三箇月のあいだなどはすぐに流れ終わる様な光景だった。宿泊先のホテルは、錯覚か、オリエンタルな作りで、入り江・アパルトマンに似ていて見えた。まずは観光もそこそこにしておいて、ホテルで寝そべりながらビーチを選び、港までバスで移動して、プーケット島へ海を渡り、直行でビーチに移動することにゆっくり決めた。
 ここが東京湾沿岸のレストランで覗き込んだカロンビーチだ。アングル以外は同じだった。ふたりは海に入った。確かに食に向かなそうな美しい光沢を帯びた魚が群れをなしている。ふたりは戯れ続けた。
 躰の疲れをとるために白銀に照り返す砂浜で、島の路地裏の売り物を再度食した。海の向こうに蜃気楼が現れゆがみゆれてそれを覆うように大粒の驟雨の幕が降りてきた。峰子は映像を取り入れている。
 コムローイの時期まで、日本の警察から連絡はなかった。ふたりは様々な遊びに甘んじた。行為三昧だったが、峰子の体調に異変は認められなかった。そして期限はきた。ふたりはチェンマイへ渡った。
 バスは混雑していたが席を取れた。移動中、観光もいいけれど皆ブッディストなのかしら私たちも含めて、と峰子が呟いた。ぼくが眺めやった。少なくともこの国民は戒律を持ってそうね。ぼくが見澄ました。三箇月といえば出産の最終決断なのだけれどもそんなに瞳孔を開いて見つめないでよ、と峰子が口を押さえながら声を上げて笑った。車窓の外で眩暈がする。
 円を描く外回廊に曼荼羅状に僧侶が座している。儀式はこともなく始まった様だった。僧侶たちの厳粛な誓願の声が響くなか、夥しい人々が無邪気な様で灯りを浮かべていく。ふたりは参加はせず傍観者として見入っていた。上空のコムローイが明滅しながら光の粒となって、ただの夜空と成り果てるまで見送った。旅行は終わった。
 入り江・アパルトマンに戻ってから、つわりが始まった様子の峰子は、警察の捜査のいい加減さを知ったが、とにかく死んだことに違いはない。記念に、男の墓地へ赴くことになった。ぼくは遠慮した。
 峰子はなかなか帰ってこなかった。墓地のなかで迷っていて、何度も探しても見当たらないと端末に連絡があった。日を改めて見つけたらいいと返しておいた。ぼくはひとりだけの躰を持て余しながら端末に向かい続けた。峰子を待ちながら端末のなか、万華鏡の様な迷宮で彷徨っていると、あるサロンに入り込んでいた。
 例のサロンと酷似して見えた。似た嗜好者を探っていると、峰子そっくりの女の声と会った。間違いない様だった。会話はあまり弾まなかったが、白を切っているからだろう。峰子として話を続けていると、私ならばそんな簡単に婚約破棄などしないけれどと返してくる。会ってもいいとまでいわれた。是非そうしてもらいたい。具体的には聴かされていないが、場所は近いそうだから、幕張の海辺で落ち合うことにぼくが決めた。
 知らない女だった。かいだことのある匂いがした。手を加えればこんな顔になってもおかしくはなかった。くちびるをめくってみた。タトゥは見当たらなかった。夜が遠くで横浜の夜景を浮かべている。
──光の粒は幾らでもあるのだから躰を嗜めばよいのだ。
 女はどれだけ経験があるのだろうかと考えているとき、相手がこちらを見つめて姦しい笑い声を上げた。
 激しい頭痛が始まった。冬を受け取る肌の感覚もないが構わない。相手の女の全貌などもどちらでもいい。この躰で今夜、入り江・アパルトマンでその躰を確かめたあと延々と味わう。浮かぶ陸影がぶれ始め、拡散してゆれた。