弌矢コード

挿絵に負けたくないです。

リリカルなる狂乱

 夜のはじまりだった。双子の兄が終戦記念日のまえに電波塔にぶら下がっていた。限りない光が流れている夜景に面をむけて空中に浮かんでいた。血で黒ずんで染まった紫色のシャツを着させられていた。とにかく水々しい去り顔だった。
 カラースライドを必ず持ち歩いていた兄は「現実逃避のグライダー」という言葉を好んでいた。その兄は他界後の世を信じていなかった。だから「現実逃避のグライダー」で世を走り渡ったのだと思う。いい過ぎだろうか? だがぼくは信じていた。「現実逃避のグライダー」なんかではなく他界の後を。けれど双子のぼくたちは静かな親和力に囲われていたと思う。
 ぼくは兄の紹介でともに仕事をしていた。今でもぼくは風見鶏のもとで仕事をしている。例のあれではない。現場での綽名だ。彼に綽名をつけたのは親方だった。屈強な親方はひよっこでおしゃべりな彼に風見鶏と名づけたという。ひよっこといえど、風見鶏は打撃に柔術をも体得している。ただそのふたつが噛みあっていないのがたまにきずだった。ぼくたち兄弟と風見鶏は青い大気の流れ乱れる空のもとで毎日どやされながら鳶をしていた。
 風見鶏の全身のバネがすさまじいというのはほんとうのことだ。負けじと僕の兄の並外れた滞空時間の長さもほんとうだ。現場の足場から低みへとよく飛び下りていた。それは藻のように柔らかい着地だった。落下のときに動作するんだと兄からトリックを訊いてもぼくには判らなかった。躰ひとつで怒号のなかぼくたちは懸命に働き続けた。
 兄も風見鶏もいつも普段着と同じくウルトラマリンブルーに染められた作業着に布を頭に巻いていた。昼間は現場近くを囲う湾のもとでの食卓、兄はいつものようにカラースライドを空に透かして眺めていた。それからよく眠った。
 笑い転げるような声で目が覚めた。真昼の職人全員が眠りに沈んでいた。起きて見渡すと兄と風見鶏がいない。また笑い声が聴こえた。叫ぶような笑い声が。
 ふたりは海の上をどこまで走れるかの勝負をしていた。湾岸から海へと上をむいて笑いながら沈んでいくふたり。素もぐりの得意なぼくと真逆のなぐりの兄が溺れかけながら何か叫んでいた。またやっていやがる。岸に上がりウルトラマリンブルーの布をしぼっては顔をぬぐってまた沈むということを繰返していた。作業着を海水で涼しげに染めた兄がぼくに気がついた。おまえもやれよと雄叫びを上げた。ぼくは何につけてもそっくりといわれる兄に勝ったことがない。その兄が一度も風見鶏に勝ったことがない。兄がこちらに輝く手のひらを広げている。
 下らないよ。
 下らなくやれよな。
 やって何になる汚いな。
 下らなく叫び倒してみればいいんだ一度でもな。
 下らないことだ。「現実逃避のグライダー」だなどといって兄たちのすることすべてが下らない。兄と風見鶏とは悪友の関係にあったがぼくは違った。ふたりはいつも汚いじゃないか。風邪を引きこじらせる羽目になってしまえ。


 兄の訃報を訊いた風見鶏は蒼ざめもしなかった。遺影に斜めにかかる布があるがそれをウルトラマリンブルーにしてはどうかと風見鶏がいった。透明な写真集もあっただろう? それも上映しようじゃないか。 
 風見鶏はそうした。ぼくそっくりだという遺影に風見鶏の手で兄の布がかけられた。酒の席でだったが酔っているせいではなかった。皆ぼくと遺影を代わる代わる見やっていた。ぼくは親族に色々つぶやいたが予定のカラースライドの上映はおこなわれなかった。悪友の提案などはお断りだとされた。風見鶏は帰らされた。つまらぬ走馬灯が回転していた。
 風見鶏のマンションでそれをした。横流れするカラースライド。デルフトの絵師。絵師の魔法の十数点はみな宙に浮いていて見える。突き放され誘われスクリーンの枠のなかへ出入りしていく。眩暈を起こすこの感覚は逃避か。ぼくがこのマンションの暗い一室で世を忘れている。いまゆらゆらと死んでいるような気がする。すべてが忘却の彼方にあるように。
 電話が鳴った。風見鶏が淡々と話している。切ってから殺したのはおれの知りあいだったと白状するようにいった。休戦の日々は終わったと。そういった。
 そうなんだね。
 すまない。
 この絵は素晴らしいから有名なのかな。
 風見鶏は浮かぶように笑んでカーテンを広げた。ガラス窓を開けると自衛隊の飛行機が上空に白い線を描き流している。デルフトの絵の余韻が昂ぶる。風見鶏がアスピリンを取りにドアを開けた。突然部屋に強い風が走り渡る。
──おまえはそっくりだよ。
 何を抑えているのか判らないぼくが開け放たれた窓の外へむけて出し抜けに双子の兄そっくりの雄叫びを上げたがしかしそれは海底での叫び声にも似ていた。燃え上がる青、海を越えてきた青という意味を持つ色あいに包まれるぼくを、透明なグライダーが静かにすり抜けていった。広げたぼくの手の甲に、静脈が浮いている。
 これから兄にとってのぼくのため、トップの風見鶏は、仇を柔らかく殺しにいく。ぼくも藻のように柔らかい心地でいる。悪友のしるし、ウルトラマリンブルーのバンダナを巻いて、ともに殺しにいく。いつか赤く染まるまで。