弌矢コード

挿絵に負けたくないです。

ち か ら

どうも、
ひょっとしたらピキュリアンの、心地良い事が大好きな、弌矢です。

今んところ2キロ減っている僕は、お茶漬けが食べたいのだが幼いころ弟とお茶漬けの早食いを競い合った事があって、母親がいきなり、スタート! と声を出すので、僕は慌てて掻き込んで行ったのだった。頑張って頑張って飲み込んで行き、弟は美味しそうに食べ続けている。その結果、僕が負けた。
そんな顛末だった。
「頑張る」と言う言葉を好まなくなった僕は、「頑張」って何かを成してもあとで失敗して鬱になりかねなくなった。実際、振り返れば、「頑張」っては暗いトンネルばかりの人生だった。けれどたまに苦手な事が好きになる事もあったし苦手な事が好きになるのは救いだったし、なにより心地の良い事だった。苦手な事が好きになる契機が訪れるのは、それを適当な程度で持続させておいたから、結果、好きになっただけだと思っている。
僕は好きな事には目がない。好きで成せば、失敗しても、好きなのだから、好きにやり直せば良いだけの事で、だから、僕は興味のある事には飛びつくし、好きな事なら何でもやる運びとなっている。やってもやっても好きなのだから、一向に「頑張」っている気がしない。
人間はストイシズムに向いていないと思っている。ストイシズムで、つまり、歯を食いしばり「頑張」って、本当に何かを成し遂げた人間を、少なくとも僕は知らない。だからそう思っている。ダイエットもそうだ。僕の場合はストイックにならないでいるから続いている。本当はその不真面目さをひた隠しにして、──頑張ってるぜ、ただ、己を信じて……などと格好つける手もあるらしいけれど、それは恥ずかしくてできない。ストイシズムを投げ捨てて、好きな事のためならば何でもする人間になってしまったかも知れない僕は「頑張っている自分」を他人に向けてアピールしまくる人間を目にするたび、幼すぎるのではと思う程の反応を示し顔を赤らめる、もしくは気分が悪くなるのみならず「根性論」などというでたらめで見え透いた大嘘を人一倍嫌悪し、敵視するにまで至った──
やっていられるか。そんなものでやる気になるのかよ、阿呆。
では、と僕はモチベーションについて、思考をした。僕はまず、思考とモチベーションをごっちゃにしているのでは、と思考しはじめて、字引を引いた。
広辞苑には、モチベーションとは、動機付け、やる気、とある。知ってた。
けれども、そのモチベーションの前に《思考》がある気がしている僕は、その《思考》が《点火》をモチベーションに与え、その勢いのついたモチベーションがぐるりと舞い戻って更に《思考》と強い共鳴作用をし始めるのではと、ぶっちゃけ当たり前のような事に、恣意的に、思い至った。
《点火》はエンジンプラグの先端から出るほどの、小さなものだ。
たとえば静まり返った寺院の鐘を思い浮かべる。始まりの、鐘にほんの触れる程度の《思考》、それによって起こる《点火》によりその鐘は指先で突く程度の動きを見せる。続けざまに指先で突かれたそれは揺れを起こし始める。そして次第に大きくなる勢いに乗せてこちらから更に押して行くに連れ、力を孕み激しい揺さぶりがかかったそれは寺院全体へ向け轟々と巨大な音を響き渡らせ出した。そしてその時だ、庭の草花の手入れをしていた僧侶があれは何事かと振り返る……
閑話休題
何かの前触れにも似た《思考》を、モチベーションにどう《点火》させるかを、考えればいいのだと思った僕は、端末の単なる通知音が《点火》になる事があると気がついた。考えてみれば、胸を打つ作品が《点火》になる事もあるし、ヨガや散歩、入浴、部屋の掃除やインテリアが精神を牽引して《点火》する事だってあった。友人との会話の時のふとしたきっかけが《点火》を引き起こす事もまれではない。
と言うわけで、TwitterInstagramを好き勝手にしたり、好きな作品を味わったりしている。ヨガや散歩や入浴や、部屋を綺麗にしたあとで好みのセッティングに仕仕上げるにはどうしようかと考えを巡らせたり、何でも好きな事をしている。好きな事をしながら、つまり前触れである《思考》をしながら、プラグに《点火》させる機会を待ち構えている。今もこうして好きな事ばかりを好き勝手にしながら待ち構えている。
もちろんこれは熱血ばかりを強調しておきながらプライベートが見るも無残な人種や、努力ばかりを褒め称えては辺りに押しつけている見苦しくて傍迷惑な人種たちについてのモチベーションについては与り知らないので、まったく捨象しているのだが、
あ、
そう言えば、ガムなんか噛んで整列もろくにできないアメリカなんかに日本が戦争で負けるわけがないと思っていたのが自分の一番の間違いだったと、よしもとばななのお父さんが言ってたよ。
とにかく、できるだけ心地良く暮らしていたい。
僕はたとえば、復讐心を力に変える、そういった力を決して甘く見ていない。
ただ、暗い事ばかりを考えがちだから、できるだけそう在りたい。
明日の朝はゆったりとお茶漬けを食べようか。
では、
いい加減な事も大好きな、弌矢でした。

 

増減論序説

断言します。
2019/02/16土曜日の今日から、2019/04/16火曜日までに、七キロ痩せます。
食事制限で痩せます。
毎日ツイッターに体重の増減をつぶやきます。
痩せなかったら、
ツイッターも辞め、
インスタも辞めて、
文学も辞めて捨てます。
おうちにある芸術の書籍も全部ナチスみたいに燃やしてしまいますし、
自己啓発本しか買わない人間に、
というか、読書すらしません。
そして昼間のテレビcmをぼうっと眺めてばかりいて、
一年に数回ある長時間番組のなかでマラソンをするタレントを観て、
号泣してみせます。
苦しむ子供たちの気持ちが解ったような口を利いてみせます。
もし痩せなかったら、
すべての言動に無責任で、虚栄と金だけの人間に、
おしまいの人間に、僕は成り果てる覚悟をここに刻みます。

 この穢らわしき者共を踏み潰せ ──ヴォルテール──

数限りある読者の皆さん、御機嫌よう。 弌矢。

ブラウン&ホワイト

 彼女の名前を借りに「エリコ」とするけれども、とにかくバレンタインの前日に、僕がエリコという友達とインターネットを使った作業通話をしていた時だった。彼女はバレンタインのためのクッキーを作り始めていた。
 する事のない僕は眠くなって、まどろんでいた。
 ふと目を開けて、部屋の暗がりに発光するモニターを眺めやると、パソコンの向こう側で彼女がクッキーを作り続けている気配があった。
 そして僕はまた、うとうとし始めた。
 パタンと音がして、気付くと、彼女はまだクッキーを作り続けているらしかった。
 それから僕は完全に眠りに落ちていった。それから目覚めた時には窓辺から陽が射しかけていた。寝惚けた僕の気配に気が付いた彼女は、喜んで言った。
──もうすぐできあがるんだよ。
 エリコは仕事で疲れて帰ってきてから、眠らずに、もう八時間もクッキーを作り続けていたのだった。僕は目を擦りながら、彼女からのそれを男達はどう受け取るだろうかと想像してみた。
 ──ありがとう、可愛いね、今晩どう?
 おかしな事を言ってのけるメンズがいるらしい。大泣きしながら受け取るメンズもいるという。当然の様に受け取るだけのメンズもいて、カップルの誕生だってありえるその記念日、やりとりは様々に繰り広げられていく。
 僕はできあがったそれを、写真として送信してもらって見た。キッチンの灯りが反射している銀色の缶に、深い色のリボンが義理がたく結ばれて、それは十数個あった。そのすべてが、エリコの無償の作業によって完成されたバレンタインクッキーである。
 それから、不眠の彼女と、起きたばかりの僕は少しの間、他愛のない会話をした。その途中で思った。義理チョコがあるのだから義理がたいホワイトデーがあってしかるべきで、それならば男たちも手作りホワイトを作ればよいのだ、と。エリコの義理に嫉妬覚えた僕は、対抗して、なぜかAmazonで木工用ボンドを買う事にした……。
 何かを作る事。
 何かを込める事。
 アイテムによって何かの気持ちを伝える事。
 聖ウァレンティヌスが処刑されたとされる不幸なる日に、心を宿らせたプレゼントを贈る行事。
 なにもエリコに限った事ではない。この国にも、この様な女性があちこちにいるものだ。その様なあちこちの彼女たちも様々に、贈り手へ向けて何かを作り上げようとしている。そしてその達成は、義理ある男相手のものなどではなく、他でもない、彼女たち自身のものでありうる──

 エリコはへとへとになっている。アイフォンを片手に、もう眠りかけている様だった。優しい小鳥のさえずりがすでに聴こえて来ている。僕は通話をそっと切った。彼女はこの朝に向かって、何かの夢を見始めているのかも知れなかった。
  

ACIDをしてまゐる

 なめらかな文殊菩薩の物言わぬ眉に、陽が差していた。文殊菩薩は座していた獅子と離れてしまったまま、曼陀羅の張り付いた仏壇に並べて置かれている。藤の樹で作られた物らしいが、罰当たりにも壊されたのだ。知人が、まるで生き物の様に大切にしていたそれは、もろい物だった。
 ぽつねんとそれを眺めやっている私は仕事も辞めて、よるべなく、九〇〇〇〇円がある他、ひねもす何もない。喪についていた。詩を書く知人が死んだのだった。
 知人は四〇を過ぎたばかりの歳だった。曼陀羅に囲われて死んだのだ。哲学を持っていたし、《樹木のスタンザ》と題された詩で名の知られているらしい賞を執った事もあったのだが、それでは食えずにいた知人はLSDを入手するために私からよく寸借していた。
 鹿威しが庭で鳴った。みなしごとなったブルネットの少女が──と言ってもすでに二〇歳近いのだが──客人の私の為の炊事を終えた所で、縁側に座り、洗濯物の折り目を揃えながらこちらに顔を向けていた。豊かな額の下の茜色のまぶたを瞬かせながら私を窺っている。
 私は改築された平屋の、曼荼羅の古布の張り巡らされた部屋の中、知人の仏壇に寄り添っていたのだが、母親によく似た、この少女の佇んでいる縁側にすり寄った。庭では、上へと引き伸ばされた藤の樹の花が、一面の高い棚から滝さながら一斉に落下する様にして咲き乱れている。
 少女が靴を履く様に私を促し、私の手を取って、縁側から目映い五月の外に導いた。立ち眩みがする中を甘い香りが揺れた。それは知人の妻のかぐわしさに似ていた。
──我々は現在という時間の鎖に縛られているゆえヴィジョンをもってしてこれを離脱せしめ世界を正確に認識するべし、なお使用すべきその成分、生き物であるべしと。
 植物好きの彼から幾度もそう聞かされていた私にとって、彼は知人に過ぎなかった。彼の哲学はLSDによる自己洗脳だと聴かされていた私はそれを不気味に感じて、交友関係に距離を測っていたのだ。
 知人が樹木を大切にしていた事は知っている。この家屋も木造だが傾がず、床には蝋が引かれ、よく磨かれてある。ナヲミと名付けられたこの知人の娘も、大切に育てられたのだろう、艶やかな飴細工の様に発育をしている。そしてナヲミは私に惚れている事を私は知っていた。ナヲミは私に会いたいがゆえに、父親の借金を返す役割を自ら引き受けていた。娘の羽振りは悪くないらしいが、家事もきちんとこなしている様だった。
 私とナヲミは知人の家からでて仏の売り場へ向かった。二つに壊された文殊菩薩を買い変えるためだった。仏像の店は坂を降りた突き当たりにある。派手な色をしたショッピングモールの食い込んだビル街を通り過ぎて、妙な店に辿り着いた。工務店と仏壇屋が一緒になっている。私はナヲミに続いて門をくぐった。
 店主は曼荼羅に囲われている奥のレジで新聞を読んでいた。来客に気づいた店主はナヲミを眼鏡の上越しに見て、眉を上げた。
「そちらさんは誰だい」
 店主は不審そうに枯れた声でそう言った。
「お友達ですけど」
 ナヲミにそう言われて驚いている私を、店主はあからさまに訝りながら、「このたびはご愁傷様で」と言う挨拶から始めて、知人の記憶を長々と続けだした。何か得意げな物腰の店主が疎ましくなってきた私は、さっさと買い物を済ませようと、二人をよそに文殊菩薩を探した。
 知人の飾っていた文殊菩薩と同じものがあった。九〇〇〇〇円だった。私が店主に呼びかけると彼はナヲミ越しに身を傾げて、
「ストックだよ、それはあいつの言霊だったから。どうする」
 獅子に乗る文殊菩薩を私は手にした。藤の樹木をくり抜いて作られた、なめらかなそれは、かぐわしかった。私はナヲミに返済されたばかりの金すべてを店主へ差しだして、早めに店をでる事にした。
 坂を登っていく道すがら、私はあの店主は知り合いだったのかと聞くと、父の旧友で、あの父の家の設計から建築まで彼が全てを手がけたとの事だった。
「それからというものの、パパと頻繁に遊んでいた」
 とナヲミは答えた。何をして遊んでいたのだろうか。
「トリップしていたわ」
 ナヲミは少しうつむいていった。私は微笑んで見せ、ナヲミはその遊びをした事があるのかと聞いてみた。ナヲミは答えた。そして父親の書斎にLSDの染み込んだ紙が残っている事を知った。私はドラッグを好んで使う方ではないがしかし、ナヲミとそれを使用して縁側からあの咲き乱れる藤を見たいという欲動が躰に走るのを覚えた。
 そしてナヲミは風俗嬢である。それについて、私は少しだけ本人から聞いてはいた。しかし私の欲動は以前からのものによる。それはナヲミが幼女からのものだった。
 私はナヲミを誘った。ナヲミに対する好奇心に過ぎないところが悪どいのかも知れないが、誘った。本当はあなたもドラッグを好むタイプなのだろうとナヲミに言われた。私は失業の身だが、むしろ退屈だったところでもあったし、ナヲミと付き合ってみたいと思っていたからの事で、ドラッグを好んでいる訳ではない。
「縁側より藤の花の下のベンチでしましょう?」 
 二人は藤の垂れ花の内部へ入っていった。そして降り落ちる豪雨の様な藤花に囲われた二人はベンチに腰掛けて紙を口に含んだ。やがてやってくる色めく世界で私達は何をするだろうか。
 それはすぐにきた。たちまち天が紫に染まりながら降り注ぎ私達を包んでいく。私は躁をみなぎらせながら同じく紫に染まる少女を抱きしめていた。あなたに連れ戻して欲しかったのと彼女が言いだした。私はこの少女の恋心を受け入れて、男性版ベアトリーチェとなり煉獄から少女を飴細工さながら引っ張り上げ、至高天で巻き付き戯れる役割を買ったのだ。
 止めて! ファンタジーは好きではないから……パパに嫌気が差して一層と好きではなくなった……。
 少女が声を発した。とたん失墜して汚らしい地に叩きつけられた私は、煉獄の鎖に縛られた状態を堪えながら空を見上げている。紫の花の雨に囲われて太陽が狂い咲き、その中より国際色豊かな菩薩が降りてくる。凝り固まった首を上げて鮮やかな文殊菩薩を目撃しながら、私はこの瞬間、知人の言う離脱と世界の正確な認識を得た、と言ったらあまりにも? ……破壊の呼びかけが聴こえる。どれだけの時間が過ぎていくのだ。どれだけの時間が向かい来るのだ……。
 太陽光が、垂れる藤の花から透けて、まだらに射し込んでいる。散った藤の花が地面を紫色に染めている。ナヲミも素顔を藤の色に染めながら立っていた。
「私が破壊したのだわ」とナヲミが口を開いた。「入れ込んでいたパパと、その文殊菩薩を渡したあの男が会うから」
 幻視は前触れもなく醒めていた。意識ははっきりしていた。私はもう一度訊き返した。
「あの曼陀羅の部屋でそれを鑑賞しながらトリップするからよ」
 文殊菩薩の宗教だろうか。文殊菩薩トリップに嫌気が差したのだろうか。
「そして時間を超えて男が私を犯すの」ナヲミはそう言いながら、赤く染めた顔をきっぱりとさせて私に向け、「幻覚の中、私にふさわしい人間に変身したつもりの男が私に言い寄って、断ると菩薩よりからの天罰が下るって」
 私は恥じ、赤面した。私も同じく顔を染めていた。
「母親の忘れ形見の藤の花が枯れるまで放置してしまうぞ! って脅すの。手入れは男がしていたから。パパは恐れた。詩人でしょ、あの藤の花と紙がパパの全部のヴィジョンの根だからとか」
 知人は妻の記憶まとう藤の花が好きだったのだ。それは違いない。しかしその記憶をまとわせる藤を結婚の記念に植え与えたのはあの男だった事を知った。
 穏やかな陽が、細く幾つも差している。私は花の隙間からゼリー状の空を眺めやり、一体にいつからこの世界はドラッグをでも舐めなければ真実らしきものを垣間見る事ができなくなってしまったのか。藤の樹木を彫って作られた文殊菩薩が与えるという天罰について思案した。
「正気の沙汰じゃなかったわ」
「そうだね」
 と私は相槌を打った。
「でっち上げよ。仏像は藤じゃなくて楠の材木でできてるのよ。でもパパったら、紙はあの男に譲ってもらってたし、あの男がママの為に藤を植え込んでくれたのだからという理由で断り切れなかっただけよ、正気じゃないとできないわ」
ナヲミとあの男との情事は、ナヲミの勤め先ではなく、この場所で何度となく瞳孔を開かせておこなわれたと言う。
「あれだけ足を広げていたのなら、七桁位は稼げていたわ」 
 ナヲミが文殊菩薩を密かに破壊したのは、荒れ狂う父親自らが壊したと思い込ませる様に、幻想の中で仕向けたのだった。ヴィジョンをしてヴィジョンが取るに足らない事だと気付かせる。そんな拙い実験をした様だった。荒れ狂う幻想の中で機会を狙っていたらしい。少女らしさが覗えた。 
「躰なら幾らでもあるのに」
 とナヲミが唇を尖らせながら笑って見せた。
 私が金の件で知人に会いにいった時、知人の妻が門の外で電話をしている姿を目撃した事があった。表情に陰りがあったのを覚えている。知人の妻は快楽に狂っているという又聞きをしていた私は、彼女の膝小僧に戯れてまとわりつく娘を哀れんでいたと思う。
 私は早急にでていく事を深刻に提案した。とたんナヲミは、もう解決したわねと喜びだした。
「ただし、お家を全焼させてからよ」
 二人はスーツケース二つを足下に並べて、門に立った。炎は火薬を仕込んでいるかの様に物凄い速さで上空へ向け家屋を舐め尽くしていった。藤の花が炎上の中で揺れていた。ナヲミは私が買った文殊菩薩を片手に持って、背伸びをして見上げている。
 私も私を解雇したせせこましい会社を燃やせたら良いと思った。居場所がなくなる事がどんなに寄る辺ないものか。お陰で、私は当面、マンションの家賃すら払えなくなったのだ。
「何処に棲もうかしら、一緒に」
 ナヲミが文殊菩薩を弄びながらそう言った。
 その手もあるのだがしかし、暮らしていけるのだろうか。私はひねもす何もないのだ。風俗のボーイをやるには歳を食い過ぎている。経験もない。私は失った九〇〇〇〇円を乏しく思いだしながら苦笑した。
「あるわよ」
 ナヲミは買ったばかりの文殊菩薩を返品しにいこうと言う。ナヲミは照れる私を引いて、ビル街のショッピングモールの方角からやってくる人間や消防車とすれ違いながら坂を下りて、工務店のドアを開いた。
「火事だって?」
 店主の男はドアの近くに立っていた。
「薬漬けと強姦を見逃す代わりに文殊菩薩の代金を一〇倍にして返して。それから二人で住める家を案内してよ。平屋が良いわ、新築の」
「捕まっちまうよ」
「そうかしら、消防法違反のお家が燃えてしまったから?」
ナヲミが責めると、男はあからさまに翻って、笑みを浮かべた。私にはそれがことさらな厭らしさと窺え、気に病んだ。
「色々世話になった事だし、例の物もよければ。ハヴァナイストリップ
「ええ。私達これから旅をするの」
 下唇を噛んで笑う下卑た男に即答したナヲミは、何も気にとめない様な面立ちを、私に向けた。それは洗い立ての様な顔だ。
そして今、もう私たちは空の上を飛んでいる。
「こんなにある。何枚かしら。そこまで悪者でもなかった様ね」とナヲミが明け透けな笑顔を見せた。「この紙で自己洗脳し放題ね」
 金がない私は、早速紙を使った。現実に頼るためには洗脳でもされよう。大型ジェット機からの空が例の如く染まり始めた。私はなめらかな文殊菩薩が召喚されて地上に降っていくところを正確に眺め下ろしていた。充ちた大気に洗脳されていくかの様だった。
 私は夢うつつの心地で、上空で未来の結婚を今するという詩に思い至っていた。暮らしは戻れそうにない。戻る気などない。この先の幻をや。
 現実、家事は得意なの、とナヲミが飴細工の様に笑った。かぐわしい甘い匂いが揺れるのを私は、何も気に病みもせずに味わい尽くそうとしていた。ナヲミの札束を数える音が夢の様に響いていた。